渋沢栄一はどうのようにして日本資本主義の父となったのか

渋沢栄一銅像 経済の教室

2021年2月14日、渋沢栄一の大河ドラマ「青天を衝け」がスタートします。

渋沢栄一といえば、日本資本主義の父と呼ばれ、みずほ銀行など500以上の企業の設立に関わりました。

でも渋沢栄一はどのようにして日本を資本主義化していったのかについて、知らない人も多いかと思います。

そこでこの記事では、渋沢栄一と明治維新の経済政策、そして近代経済学の父アダム・スミスとの関係についてご紹介します。

家業は藍玉屋

時代は幕末。

天保11年(1840年)に渋沢栄一は埼玉県深谷市で生まれます。

実家は、養蚕や染料である藍玉を作っていました。

16歳の頃には代金の取り立てや新規の注文を取るために、たびたび信州や秩父まで赴いています。

この頃から金銭的な感覚を身に付けていたのでしょう。

青年期は勤王の志士

渋沢栄一は若い頃は勤王の志士=尊王攘夷派で、北辰一刀流も学んでいます。

23歳のときには、横浜焼き討ち、というなんとも危ない計画さえ建てていました。当時横浜には外国人の居留地があったのです。

1863年、まずは群馬県の高崎城を乗っ取り、そこから鎌倉街道を下りながら仲間を募り、横浜の外国人居留地を焼き払う計画です。

しかし決行の直前、仲間の反対で計画は中止に。

もしことのき横浜焼き討ちが決行されていたら、渋沢栄一は命を落としていたかもしれません。
そんなことになったら日本経済の近代化は何十年も遅れたかもしれないでしょう。

このときの渋沢の決断は、日本の経済に多大な影響を与えた決断だったとも言えます。

一橋慶喜の家臣となり欧州へ

その後、尊皇攘夷に行き詰まりを感じた渋沢は、ツテをたどって一橋慶喜に仕えます。

慶喜に仕えることができる時点で、すごい!、という感じがしますが、時代に名を残す人というのは違いますね。

1866年、慶喜は第十五代将軍になり、渋沢は26歳で幕臣になります。23歳の時には横浜焼き討ちを計画していたのにです。。。

その翌年1867年に、渋沢は27歳でパリ万博使節団の一員として欧州へ旅立ちます。

このことが後の渋沢の考えを決定づけることになったと思われます。

当時の欧州はアダム・スミスの考えが一般的

当時のヨーロッパの知識層の間では、近代経済学の父アダム・スミスの考えが浸透していていました。

その考えとは、経済は自由な市場に任せていれば「見えざる手」によって国民の利益は最大化するものだ、という考えです。

つまり国や政府はなるべく規制などせずに、民間主導で自由市場に任せるのが一番だということです。

この考えは<小さな政府=制限された政府>を志向します。

後のマネタリスト、サプライサイド経済学につながっていく発想です。アメリカであればレーガン大統領時代のレーガノミクス、イギリスであればサッチャー首相時代のサッチャリズムで採用されました。

パリ万博使節団として欧州を旅した渋沢は、この考え方に直に触れたものと思われます。

渋沢自身も、「アダム・スミスの学説が私の信条たる道徳に一致する」と述べています。

明治政府はアダム・スミスの政策を採用

大政奉還に伴い、渋沢は欧州から帰国します。時代は明治へと変わっていました。

大隈重信などの勧めもあり大蔵省に勤めた渋沢は、銀行設立に向けて動きます。

この頃の明治政府の経済政策は、「歴史上発生した自由市場と制限された政府との、もっとも重要な例」と言われています(「選択の自由」M&R・フリードマン)。明治政府は、経済政策として自由な市場に任せる方針を採っていたのです。

明治政府は国力を高めるための富国強兵に躍起で、「個人的な自由」というものには関心を払いませんでしたが、経済政策としてはアダム・スミス的な考えを採用し、自由市場を実現する方向へと導きました。

これは、欧米列強に早く追いつきたいという想いが、欧州知識人の間で一般的だったアダム・スミスの考えをそのまま採り入れることにつながったと考えられます(前出「選択の自由」)。もちろん、内部ではいろいろ論争もありましたが、結果的に民間企業が明治時代の日本の経済を引っ張っていくことになります。

渋沢も明治6年、33歳で大蔵省を退任し、第一国立銀行(旧第一勧業、現みずほ銀行)の総監役に自ら就任します。
2年後の明治8年、渋沢は35歳の若さで頭取になっています。

なお第一国立銀行というのは、国営の銀行、という意味ではありません。国立銀行条例に基づいた銀行という意味で、民間銀行です。

ここから渋沢栄一は、日本資本主義の基礎を築いていきます。

日本資本主義の基礎

江戸末期から明治時代の主な輸出品といえば蚕から作る絹=生糸です。

当時ヨーロッパの生糸産業はフランスから発生した蚕の病気(微粒子病)により壊滅的な打撃を受けていました。このため日本からの輸出が急増したのです。

ところが当初、生糸を作るのは手作業であったため、品質が粗悪なものも大量に出回りました。諸外国からは品質改善の要求が来ます。

実家が養蚕業もしていた渋沢は養蚕にも詳しく、このためまだ官僚だった明治3年、30歳で官営富岡製糸場設置主任ともなってしました。

欧米では既に産業革命により水力や蒸気機関により動く器械製糸が普及しています。

富岡製糸場にも器械製糸が導入され、日本産生糸の品質も飛躍的によくなり、明治時代の貿易を牽引していくことになります。
(富岡に製糸場が作られたのは、蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎で採れたためです)

これにより日本経済が産業革命されます。

資本主義とは、産業革命により動力源という道具を持つ資本家と、道具を持たない労働者という2つの階層による経済だと表現されます。

蒸気機関という動力源は高額なものです。これを大量に購入するには多額の資金が必要であり、とても一人で大きな工場を作れるものではありません。

そこで必要となるのが株式会社であり、株式会社が普及していくためには証券取引所が必要でした(投下した資本を株式を売却することで回収するため)。

渋沢栄一は、日本における株式会社制度の実現、そして証券取引所設置にも尽力します。

そして1878年、渋沢38歳の時に東京株式取引所(後の東京証券取引所)が設立されます。

その後、日本鉄道(現JR東日本)、帝国ホテル、東京海上保険(現東京海上日動火災保険)など、多くの会社の設立に渋沢は関わります。

 

なおこの辺の歴史をもとにして書いた複式簿記の原理についての書籍「なぜ彼女が帳簿の右に売上と書いたら世界は変わったのか?」もご参照ください(元乃木坂46衛藤美彩さんとの共著)。

渋沢の信条「道徳経済合一説」

渋沢の信条は道徳経済合一説といいます。

企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が必要であり、人類全体の繁栄に対して責任を持たなければならない、という考えです。

この渋沢の道徳経済合一説のもととなったのは、中国の古典である論語です。

渋沢の言葉を集めた「論語と算盤」も昨年ベストセラーとなりました。中田敦彦さんも今まで紹介した本の中で№1、と言っています。

この論語と算盤の中には、「国の富をなす根源は何か」という一節があります(「現代語訳 論語と算盤」ちくま新書)。

それは「社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富」だといいます。
「そうでなければ、その富は完全に永続することができない」からです。

渋沢栄一は持続可能性を先取りしていたのです。

新一万円札は2024年

渋沢栄一の新一万円札が登場するのは2024年ですが、この紙幣を印刷するのは造幣局、ではなく、国立印刷局です。

造幣局は硬貨を製造、紙幣は国立印刷局で刷ります。

ただし紙幣を発行するのは中央銀行である日銀です。

日銀はコスト分を国立印刷局に支払って紙幣を買い取り、旧紙幣と交換するなどして日銀が民間銀行に発行します。

飛鳥山公園にある渋沢資料館

渋沢栄一の住宅があった飛鳥山(現在は飛鳥山公園)に、今は渋沢資料館があります。

今回の記事もこの渋沢栄一資料館で知った情報がかなり入っています。

ぜひ一度行ってみてください。わかりやすく素晴らし資料館です。

渋沢史料館|公益財団法人 渋沢栄一記念財団
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡地に建つ。栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催。旧渋沢庭園に残る大正期の2棟の建築「晩香廬」「青淵文庫」の内部公開も行う。

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